サムライ8 八丸伝 第14話「父の秘密」感想④
「……」(パパ)
「……」(八丸)
<ギュ…>(八丸)
「…オレの方こそごめん
ずっと長い間…オレが父ちゃんを
苦しませてたんだな…
……わがままで
いつまでも……
世話の焼ける…クソガキで……」(八丸)
<サー……>「だから…だろうな」(パパ)
「楽しい…生涯…だった」(パパ)
「まったく……
お前が息子で…よかった…よ」(パパ)
<スッ>(パパ)
「!
父ちゃん……」(八丸)
「!」(アン)
「八丸を…守ろうと……
して…くれたね…」<スッ>(パパ)
<スッ>(パパ)
「護りたいものが…あるのは…
それが——きっといい人生なんだ」(パパ)
「八丸…
……これからはこの娘のために強くあれ
そして……守って…やれ
そして……この銀河を守って…やれ
アタを……止めるんだ…
…できるか?
八丸…!」(パパ)
「……」(八丸)
<スッ>(八丸)
「分かった……
またやってみるよ…オレ」(八丸)
「さぁ…八…丸
…親…孝行は…
その…辺に…しろ…」(パパ)
<ザアアア><アアアア>
(出発の時間だ…)(パパ)
第11話「ふざけたマネを」でアタさんに尻餅をつかされた八丸をアタさんから守るべくアンちゃんは両手を広げて行く手を阻みました。普段はめんこいアンちゃんが<キッ>と唇を真一文字に結んで剣豪・アタに立ち向かう姿は巣を襲う蛇に果敢に立ち向かう母鳥を思わせました。僕が達麻であれば、アンちゃんの中に「勇を見た」と告げた事でしょう(笑)。それをパパは見逃さなかったようです。死に際にあってもアンちゃんをちゃんと評価し、それをアンちゃんに伝える事を忘れていません。
人が人との関わりにおいて何が大切かと申しますと、それはちゃんとその人を見る事だと僕は考えています。僕がアタさんがワルだけどクズじゃないと思うのは、アタさんがちゃんと人が見れる人(サイボーグだけど…)だからです。それはアタさんなりにその内面にしっかりとした軸があり、それを中心に彼の思考というものが回転している証しであります。僕はそれを「芯」と、よく表現しています。或いはそれを「自己」…つまりは「アイデンティティ」と考えて差し支えないかと思います。
それはアタさんが自分の頭(脳)で考えて物事を処理している証拠であります。結果的にそれが善行か否かは別のお話であります。立場役割を抜きにして素のアタさんをちゃんと見た時に、アタさんは決してクズではなく、寧ろ魅力的で興味深いキャラクターだと、僕は考えています。お話がアタさんの方に逸れてしまいましたが、パパさんもちゃんと人が見れる人なのだと、僕はお伝えしたかった。そうして、アンちゃんの善行…良い面を評価し、それをアンちゃんにフィードバックしているんです。
子供らにその子の長所をちゃんと伝えて伸ばしていく…それは良き教育の姿でありましょう。できない事、苦手な事を責めるのではなく、その子の得意な事や長所を補強して伸ばす方向に教育はもっと発展するべきだと、凸凹な能力の子供が苦労しておっちゃんになったケルベロスとしては激しく思うのであります。その子をちゃんと見てるから、その子の良いところが見えるのです。ちゃんと見ない人は悪いところばかり拾ってくる。そういう接し方は全ての子らにとって不利益しか齎しません。
だから、達麻達の立場からは敵であり、悪であるアタさんであっても、ちゃんと人を見て行動できている点において、僕はアタさんを評価している…と云う事なのであります(…あッ…またループしちゃった…笑)。アンちゃんはパパさんの言葉をしっかりと心に刻んでこれからも精進して欲しいと思います。そして、ここで亡くなってしまったパパさんをズーッと忘れないで欲しいと、僕は思っています。いつまでもその人を忘れないのが、故人に対する最大の供養だと、僕は信じているからであります。
誰かを護りたいと思う気持ち。それがその人の「義」であり、それを行動に移す覚悟が「勇」であろうかと思います。僕らおっちゃんやおばちゃんともなれば、護らねばならないモノが多くあります。だから、それぞれに「義」があり、それに伴う「勇」も既に携えております。それは何かというと、この社会の荒波で生きているという事であります。だから、これまで岸本先生がいろいろと批判されながら(←お前がなー)続けて来られた説明がまどろっこしく感じられて(←まだ言うかー!?)ならなかったのです。
しかし、それでも説明(←説明、説明って、お前がしつこいわー!!)をやめなかったのは少年少女に伝えなければならなかったからです。そもそも「週刊少年ジャンプ」ですから、大っきいおっちゃんとかおばちゃんはお呼びじゃないんですよ(笑)。少年少女に「義」とは…「勇」とは…を、岸本先生は伝えたいんですよ。だから、こんなにも丁寧に説明(←やだッ!!またループしちゃう!!)してたのです。そのメッセージを少年少女はきちっと汲み取って貰わないとおっちゃんは死に切れません(汗)。
別に少年少女が闘っていない!!とは申しません。僕もそうでしたが、結構な修羅場を日々経験しているのですよね。でも、皆さんが迷いながら苦しみながら歩んでいけるのは誰かに護られているからなのです。もっと云うと、誰しも誰かに護られているのであります。人は独りでは生きていけない生き物なのであります。その事に気付ければ自然と感謝というものがその身の内から湧き上がってくるのを感じられると思います。忘れないで欲しいんです。貴方達は誰かに愛されているのです!!
幼い時、若い時にはそれが見えないのだと思います。でも、空気が皆さんの周りを満たすように、否…それ以上に貴方達は愛に満たされているのです。それは貴方達が「護られる側」にいると云う事であります。でも、それを負い目に感じる必要はありません。何故ならば、僕らは護りたいのであります。与えたいのであります。パパさんが自分の命を賭してアタさんを止めたように、自分の事なんかどうでもいいくらい大切に思っているのです。そういう人が貴方達を護っている事を忘れないで欲しいのです。
そして、いつの日か…今度は少年少女達が八丸のように、また誰かを愛して欲しいと、僕らおっちゃんやおばちゃんは心から願っているのです。愛とは「与える事」であります。「唯々、与える事」に尽きるのであります。逆に愛される事は甘えではありません。しかし、愛さない事は悲しい…愛すべき人がいない人生なんて悲しいです。パパさんは八丸とアンちゃんにそれを伝えんとしている訳です。八丸を護れて…八丸の為に死ねて…いい人生だったと告げたいのです。八丸を愛せてパパさんは幸せだった…と。
急激な八丸の成長はまさに主人公特権とも言えるものです。だから、少年少女は焦ってはいけない。ゆっくりでよい…ので、ここに描かれた情景を忘れずにいて欲しいと思います。今は未消化のままでも仕方ない。でも、パパさんの言葉や八丸やアンちゃんの涙を忘れずにいられれば、いつしか貴方達の愛すべき人が現れた時、きっと心の中で弾ける気持ちがある事に気付けると思います。それが貴方達が「護られる側」から「護る側」に変わる時…皆さんが大人になる時だと、僕は信じています。