サムライ8 八丸伝 第18話 ご利用は計画的に 感想①
「敵ですか!?師匠」(八丸)
「気を抜くな
この侍…強いぞ」(達麻)
「いいか竜!
女以外は全部切る!だぞ」(コツガ)
「…何が目的だ!?」(達麻)
「猫に小判だ
金目のものは全部いただく!」(コツガ)
「浪人の盗賊か」(達麻)
<スッ…>「短い間だったが
今までありがとう」(リュウ)
「は?」(コツガ)
<ブン>(リュウ)
「!!?」(一同)
「ちょっ!!
ちょい待ちィ!!!」(コツガ)
<ピタ>(リュウ)
「何だ?」(リュウ)
「…何で相棒のオレを
斬ろうとするゥ!!?」(コツガ)
「相棒…って?」(リュウ)
「オレの事だよ!!」(コツガ)
「ああ……お前が
女以外は全部斬れって言ったから」(リュウ)
「……」(八丸・達麻・アン)
「バカ正直ヤロー!!!
女と―――オレ以外に決まってんだろ!!」(コツガ)
「ならそう言ってくれよ」(リュウ)
「言わなくても分かんだろ
そんぐらい!!」(コツガ)
「ちゃんと言ってもらわないと
分かんないっていつも言ってるだっろ
…最近雑だぞ!」(リュウ)
「何でお前が上からくんだよ!!」(コツガ)
「え…?上…
オレは横にいるぞ…」(リュウ)
「…こいつら本当に強いんですか?
何ですかこの余興?」(八丸)
「な…なんか見てると
ほほえましいです」(アン)
リュウは天然のボケだと先週の感想で僕は書きましたが、別にウケを狙い意図的にボケているわけではなくありのままなのです。それが第三者にボケとして映るだけで、リュウは決して笑わせようとして、ヘンテコなやり取りをしている訳ではありません。自然に…というのが「天然」に符号するにはしますが、リュウはボケてないので(笑)。リュウは真面目に…というか、普通に行動しているのだけれど、脳の短期記憶を司る部分に何らかの問題があって、傍目には漫才師が真顔でボケるのと同じに見えてしまうだけです。
僕はリュウと他(主にコツガ)とのやりとりにシンパシー、或いはデジャヴを禁じえません。子供の頃の記憶は既に定かではありませんが、僕が物心ついて働き始めるようになってやっと自分と他の違いが認識できるようになって、リュウがコツガに言うように「最近雑だぞ!」という感じの職場での指示に混乱していました。一旦、自分の中で根付いた指示が上書きできないんです。普通はそこは近似する案件を総合的に勘案して均すのですが、そういったフレキシブルな対応が性格(性質)的にできない…というか思いつかないのです。
リュウの場合は医療的、教育学的に支援が必要なレベルですが、コツガの存在がリュウを安定させているのは確かだと思います。外的にはボケのリュウにツッコミのコツガ…というお笑いの典型が際立ちますが、そういう事ではなくコツガがリュウの記憶と行動の連携の不備を補完しているのです。若干、コツガにも不具合がありますが、リュウほど重篤な症状ではなく、問題が顕在化しようとシャベクリで霧散できるコミュ力がコツガにあって分かり辛い。或いは、それを問題と意識できない…それもまたコツガが抱える問題なのかも知れません。
実際、僕も含めてコツガやリュウのような子らは一定数存在します。当事者としては「何か変だな…」といった違和感を感じる程度で時間の流れの中でもがいているのが一般的なんじゃないかと思います。まさか…自分が!?とか、えっ!?これっておかしいの!?と、後から…ある程度、周囲、世界を俯瞰できる視野がない状況では自分の客観的な立ち位置は理解できません。多分、子供らが自分の実情を自分だけで把握するのは不可能かと思います。リュウやコツガだって同じです。八丸やアンちゃんも同じなのです。
自由というものは不自由になって初めて感じられるのです。最初から不自由の子が、それをどうして不自由だと感じられると言うのですか!!??…っていうか無理!!これにはやはり医療的、学術的な知見に立って、これを病識し、問題視し、包括的に対象となる子をサポートする必要性があるのです。でも、僕が子供の頃はそういう機運も、学術的な認識など皆無で、それ以前に社会的にも、個人的にも助勢される一片の期待すらありませんでした。もう自分で何とかしなきゃ始まんない時代でした。親や先生とか全く当てになりませんでしたから。
全てが無知でしたから!!でも、今は違います。ちょっとググればいくらでも参考になる記述が引っかかります。医療や教育の学会や現場も問題意識が非常に高まっています。それに触れるとリュウが何でコツガを斬ろうとしたのか?が良く分かります。そして、コツガがどういう風にリュウに指示を出すべきだったか?も良く分かります。今、この時点で無知は許されないと、僕は思うのであります。今はいくらでも学べるのです。ちょっとしたキーワードで検索すれば大概の問題は最適解に辿り着けます。真贋を見抜く眼は必要ですが…。
リュウのボケを『サムライ8 八丸伝』の箸休め的なオチャラケシーンと受け取るか?悩める子供ら(厳密にいうと悩みと自覚すら出来ない子らの漠然とした生き辛さ)の問題定義と感じるか?は、読み手の知的レベルが問われるでしょう。僕は半ば当事者として既にこの作品と接して居りますので、ややもすると過敏に感じられる方も居るやも知れませんが、問題を抱える子供らにとってはまさに死活問題なのです。ここは是非とも学んで欲しい!!と、僕は思うのです。子供の頃に何も問題を感じなかった人こそ、それを意識すべきです!!
達麻が何でアンちゃんに「ゆっくりでよい」と告げたのか?何で八丸の重複した切り返しに切れずに達麻が耐えられたのか?(八丸の急激なイケメン化は除外して考えて下さい!!現状の知見で説明ができない現象ですので…)それが、よく分からないのであれば、リュウや昔の八丸のような子らといつか出会うかも知れませんから、是非ともググって見識を広めて欲しいと思います。子供の頃にそれをセルフで解決せよというのはあまりにも酷です。例え電車で、そんな子の隣に立ったとしても大人であれば一定の知見が欲しいです。
そういった機運が世の中に広まれば、何だか分からないまま漠然とした生き辛さの中で漂うしかない子供らにとっては確かな福音となると思います。何が何だか分からないまま大人になっちゃうのが殆どなんですから!!貴方の周りの融通の利かないオッチャンの殆どはリュウや八丸の成れの果てですよ!!裏を返せば、それでも人は生きていけるという事なのだけれど、それを問題だと感じる大人と出会えた子供の笑顔を想像できれば答えは自ずと知れませんか?!こうして大人になれた僕らはもっともっと学ぶべきだと、僕は思うのです。
続きまーす!!(教育者の方…間違った事をもし書いてたらスミマセン)