サムライ8 八丸伝 第23話 それが何の役に立つ! 感想⑤
「あの2人のこと
調べなくてもいいのですか?
我々が探してる「猫と子供」のコンビかも…」(鶴姫)
「…確かに猫侍と若い弟子ではあった
だが何か違和感があった…
探している標的ではないだろう
それにあの少年
一振りの瞬間”白く輝く侍魂”を見せた…」(鶴侍)
「!!」(鶴姫)
「彼は”本物の鍵”だ
素性は分からんが場数はおそらく私以上……」(鶴侍)
<ポッ>(八丸)
「間違いなく歴戦練磨の男」(鶴侍)
昨今の八丸上げ…ですが、やっぱ取って付けた感が半端なくて困ります(笑)。今回はここから八丸のゲーマーとしてのキャリアが爆上げなのですが、逆に何でこれを今まで強調して来なかったのですか?と疑問に思います。この物語の導入で侍ゲーが登場して、それが達麻がばら撒いたソフトで、八丸はそのゲームのランキング1位のゲーマーだったと提示されて以来、アタさんとの対戦で「1/120フレームを見切る!!」が出たくらいで放置されてました。ナナシの回でもあったけど、それがその回のお話にすら盛り込まれる事もなく、提示が悉く繋がっていません。
それを一個前の感想で考察しましたが、岸本先生は意味や目的は定まらなくても取り敢えずばら撒いてればいつか繋がって線になりまーす!!とお考えのようですが、これには断じて否と申し上げたいです。少年少女は間違ってもこんなダメな大人の言い訳を信じてはなりません!!<キッパリ>人生って思うようには行かないもんです。これは間違いじゃない。でもね…だからといって無為に取り敢えずやっとけ!!みたいなやっつけ仕事だと、十中八九行き着く先はゴミ屋敷か何かです(笑)。確かに大人は子供らにどう人生を生きるか?を教える責任があるとは思うんですよ。
悉く人生は思うように行かない。生まれた境遇や環境で人生はある程度制限されます。それも事実です。「カエルの子はカエル」なのです。決して「鳶が鷹を生む」は起こりません。僕は人生とは大きな川で、僕らはその水面を流される木の葉のようなものだと思っています。人は木の葉のように無力な存在なのです。それが流されて何処かに流れ着く。何処に流れ着くかはその川任せでどうしようもならない。ちょっと悲しいけど、それが現実だと僕は考えています。稀にその川に橋を架けたり、ダムを拵える人もいるけど、それは稀中の稀の教科書に載るような偉人さんであります。
でも、僕は思うんですよ。僕らは木の葉だけど、もがける木の葉なんだと!!ただ流されるしかないんだけど、その道中で体をこう…捩らせて足掻いて悶えて…ちょっとだけ葉っぱの向きを変えられたり、流れの中でほんの少し進路を変えられる…諦めの悪い木の葉です。そうやってもがいた木の葉だけが自分のみたい景色(動かなければ見れなかったどろう景色)が見える…それが不自由極まりない人生を生きる人間の自由なんだと思います。本当に小さな自由だけれど、その景色を見る為に一生懸命生にもがくしかないのです。時にはちょっとしんどいけど頑張っちゃうのも必要になる(非常に細かいけど「一生懸命」と「頑張る」は違います)。それは決して無為でも無意でもありません。
人生とはその一生を懸命に生きた人だけに微笑みます。何も考えずに取り敢えずやった事がいつか何かの役に立つことはあるにはあるけど、それは偶然です。それは「運がいい川」に流れていた木の葉のお話なのです。そんな事は本当に神のみぞ知るのですから、僕は少年少女には足掻いてもがいてジタバタしろと伝えたいです。一生懸命に自分の向きたい方向を向く為に!!だから間違っても少年少女に「取り敢えず…」とか「意味はなくても…」なんて言い訳がましい枕を付けて「何かをやれ!!」なんて言いません。少年少女にはその一生を懸命に生きろ!!と伝えます。
大人の考え方が腑抜けると子供らが未来を望めなくなるから。僕らが希望を子供らに示さないでどうしますか。大人は子供らよりも長く生きている。それだけがアドバンテージなんだから、長く生きた分、より沢山足掻いた木の葉でありたいじゃないですか。一生懸命にジタバタして流される中で少しは自分の向きたい方向を向けたんだよ!!ああ…素敵な景色だったよ!!って子供らに伝えたいじゃないですか。それが生きるって事なんだと胸を張れる木の葉でいたいじゃないですか!!だから、だから少年少女よ!!一生懸命に生きるんだよ!!応援してるからなー!!
子供らが素晴らしい景色を見れますように!!
エーッ…と、訳の分からない事ばかり書いてスミマセン。でもここは看過できない誤りなので訂正せずには居れませんでした。でも岸本先生のそういう考え方がそのまま『サムライ8 八丸伝』の物語の造りに反映されてて本当に大丈夫か?と心配です。岸本先生もお子さんがいらっしゃるんだからもっとしっかり考えた方がいいですよ…って余計なお世話でしたー(笑)。おっといけねー…感想に戻りましょうか(笑)。何だかんだ言っても感想を書きたくなるのは岸本先生の作品だけなんで、そこには愛が在るんだとお酌み取り頂ければ幸いです。
鶴侍と鶴姫って金剛夜叉流と烏枢沙魔流以外の流派の特命で動いてる臭いですね。でも「猫と子供」って達麻と八丸じゃーないんですかね?これっきゃないと思いますけど、鶴侍は否定してますね。違和感…ってまた、ボヤーッとした理由です(笑)。しかし、八丸の「白く輝く刃」を確認できるって事は鶴侍も心眼の所有者ですから、達麻のように八丸に何をか感じたのかも知れません。ところで漫画的には作中の「心眼」も『NARUTO -ナルト-』の「写輪眼」や「輪廻眼」のように眼球の能力として描いた方が分かり易いんじゃないでしょうか?この作品…リアルの用語と作中の用語が混同し易い傾向があり杉です(笑)。
「義」とか「勇」も同じですよね。読んでても「どっち?!」と思うし、岸本先生や大久保先生も同じように「どっち?!」ってなってるのを感じます。例えば達麻も目が見えませんけど、ここぞ!!という時に(心眼!!!)と念じて物事の深層を読み解く…的なそれこそ目に見える描写…眼球が反転するとか、特殊な文様がでるとか、瞳に「心」という文字が浮かび上がるとか(←有り勝ち杉の鬼滅)…漫画なんだから画で「心眼」を表現できれば八丸の鍵としての資質の認識がボヤーッとじゃなくキッパリと確定させられるし、それを「本物の鍵」とセリフで表現する必要はなくなる筈です。
それとゲームでの経験がそのまま侍の戦績と同義に語られています。それが心眼保有者の鶴侍から出てるんだけど、それって侍の戦いを軽くしてしまいませんかね。アバターの斬った貼ったと侍のそれと同じ…つまり、斬られても死なない侍の戦いはゲームと一緒と逆に説明してる気がして、軽ッ!!と思いました(笑)。でも、そう考えると全て繋がる…というか、姫の想い(祈り)とか、侍の死の判定(武神が見放す)とか、ものすごく低いところでキレイに全てが繋がるのでこれはこれでアリかとも思いますが、どうせだったらもっと高いところで繋いでよーと思う今日この頃です(笑)。最後まで苦言ばかりですみません。
続きまーす!!