サムライ8 八丸伝 第29話 義常の義 感想⑤
「!」(骨河)
『義常様…
2%でも御子息なら
可能性があるのでは?
0%ではない…
三打様は遮那家の者
そしてアナタの子です
…そこに賭けてみては?』(弁形)
『…
弁…お前は昔から
信用のおける奴だ…
その通り…
三打は遮那家
生粋の子だ』(義常)
「なぜ逃げる!!」(義常)
<ハァ>「知ってんだオレ!
俺は――…ロッカーボールに
適合できないって!」<ハァ>(骨河)
「そんな事はない!
お前は――私の子だ!!」(義常)
「!!?」(義常)
<ザッ><ズガ>「やめてェ!!」(骨ママ)
<ドン>「くっ!!」(義常)
「うわああああ!!!」(骨河)
<ドサッ>
「くっ!」(義常)
「奥方様!!」<サッ>(弁形)
「あの時の母様…
確かに弁がかけつけて…」(骨河)
『弁…あの人を…止めて…
私は…大丈夫…肩に…刺さっただけ』(骨ママ)
『ククク…嫌だね…
いいチャンスだ』<ガッ>(弁形)
『!?』(骨ママ)
『死ね』<ズブブ>(弁形)
<ニヤリ>(弁形)
「弁が…母を…」(骨河)
義常は強い侍だったのでしょうが、頭はすっごく悪かったんでしょう。きっと自分で考える…っていう事をこの歳まで殆どしてなかったなろうなーと思います。僕が義常の立場だったら、骨河(三打)の侍適性をもう一度調べ直すし、それでも侍になれないと分かったら、侍になれなくても生きていけるキャリアを得られるように道筋をつけますね。商人になるとか、医者になるとか骨河の適性と興味の最大公約数を骨河と共に探して骨河の将来を考えたと思います。しかし、義常は自分で考える事を放棄しているから、何でも弁形の思うままに操られてしまったのかなーと思います。
弁形としてもこの時に他者を自分の意のままに操る事の面白みを実感したんじゃーないですかね。その成功体験から他者の鍵を奪って自分の力に変えるという方法を思いついたのかも知れません。しかし、弁形は骨河の血液検査の検体を入れ替えて適合率(2パーセント)を謀ったのですが、義常をそそのかして無理矢理に切腹の儀を執り行うように仕向けて、骨河が間違ってロッカーボールの承認を受けてしまったらどうするつもりだったのでしょうか?骨河は遮那家生粋の男児ですから、血統的遺伝的にも侍適性が高い筈。だから採血したものを入れ替える工作をしたんですよね。
それなのに義常を焚きつけて骨河に切腹刀で迫らせて、ここに奥方(骨ママ)が飛び出して刃を受けなかったらどうなってたんでしょう。これは明らかに事故だから、そこまではいくらなんでも読めんでしょう。それに義常が切腹刀で骨河をぶっ刺そうとするのも変です。ここは骨河に自分で切腹するように説得するべきで、切腹の儀にも様式があって、きっとそれにも反しているでしょう。それらを考え合わせると義常はこの時点で頭が黄色くなってしまっていて我を失っていたのではないでしょうか?それはきっと散体してもおかしくないくらいのレベルで、既に勝負ありだった…と。
ここまで来たら弁形は成り行きに合わせて小狡く動けば詰みです。弁形は鬼族出身の侍でしたが、侍としての能力はそれ程高くなかったようなので、義常を亡き者としても遮那家の頭首に成り代る事ができなかったと考えられます。それに奥方(骨ママ)をあっさりと殺していることから、人間種の美魔女系主婦の骨ママに義常のスペアとして選ばれる可能性も否定されます。ここはもしかしたら昼ドラ風に弁形→骨ママへのアプローチに失敗か、アプローチすらできないくらい骨ママと関係が薄かった…とか。それがこのアクシデントを千載一遇のチャンスとばかりにとっさにシナリオを修正した…。
弁形としては頭空っぽのくせにめちゃくちゃエロい美魔女ママとめんこい息子に恵まれた義常が純粋に羨ましかったんじゃーないでしょうか?それで弁形は義常から全てを奪い取りたくなったと、僕は考えています。遮那家の家督云々は無理ゲーで、どうあっても自分を愛してくれない姫(そもそも運命で繋がれていない)なんかをスパッと切り捨てて、戴けるものは全て戴いちゃおう!!っていう魂胆だったと思います。やはり、ここでの成功体験がこれ以降の弁形の指向性を決定したんじゃないでしょうか?生来ポテンシャルが低かった弁形は他者から奪うしかないと、人生の舵を切ったのです。
それは善悪云々以前に弱者が強者に打ち勝つ為の方法としては間違っていないと、僕は思います。侍なんてクズばっかなんだから、出し抜かれたり殺されたりした方が悪いんです。弁形は弱者として強者・義常のキーユニットや侍魂、それにキーホルダーを奪う為に最善手を打った…それを責められる者は何処にも居ません。尾崎さんの歌じゃないけど、僕が僕である為に勝ち続けなきゃならない!!んですよ人生って。それは誰かから何かを奪う行為に他ならないから、優しさと欲望の間で人は悩み迷うのですが、心配しないでも何処かいい塩梅のところでバランスします。
それがこの歌の冒頭で明かされる尾崎さんの心情…「この街で僕はずっと生きていかなければ」なのだけど、この話を始めちゃうと終わらなくなるので別に場所を設けて書きます…いつか。僕は義常がダメだと思うんです。自分で考えてないもの。自分で考えていないっていうのは、それこそ生きていないのと一緒です。生きるっていうのは自身の主体性に100%起因します。人生とは大きな川の水面を流される木の葉のようなものだけれど、その中で必死にもがく主体性というものが大切になる。必死にもがいた木の葉だけが自分の見たい景色を見る事ができるのです。前も書きましたけど…。
少年少女には何が何だ今は分からないとは思いますが、きっとこの言葉がいつか腑に落ちて行く時が来ます。だから、今はただ我武者羅にいろんなモノをその身に取り込んで欲張って欲しいです。弁形みたいに!!善悪云々は横っちょに置いといて、弁形の生き様は主体性という面から考察すれば、一定の合理性があるのです。間違って欲しくないのは悪い事をしてもいい!!っていう意味ではないという事ね。強さは一種類ではありません。それを僕ら…少年少女がこの世界で生きて行く為に必死に考えて欲しいと、僕は願っています。いつか「正しいものが何なのか?それがこの胸に分かるまで」…その時が来る事を祈りながら…。
続きまーす!!(尾崎さんの考察は本当にいつか書きたいんだー)