ハチマル

週刊少年ジャンプで連載中の『サムライ8 八丸伝』を考察するブログです。

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ハチマルケルベロスです!!全てのアクセス感謝致します!!

僕はを眺めるのが好きです。その季節毎に様々に変化する表情があって、気付けばいつもを見上げています。雨だと外に出にくいし、曇りよりは晴れが好き。圧倒的に光の量が多いので写真が撮りやすいです。ちなみに光に関しては夏よりも冬の方が柔らかくて好き。お日様が低いのでビルの壁に反射した光が優秀な助手のように光を調達してくれます。写真を撮るには冬がいいです。冬は空気が乾いていて遠くがスキッと見渡せます。山の端がクッキリと映えて、夏には霞んでいた富士山もその美しい山体を露わにします。その光景は数字がゾロ目で揃ったメーターを見る以上に幸運を予感させて、時に息をするのも忘れて見入ってしまいます。

そういう日常の中で、僕は学生時代に先生が黒板に書いてくれた文章をいつも思い出しています。「春は曙(あけぼの)…」で始まる枕草子清少納言)です。もうものすっごく前のお話なのでいろいろと霧の中ですが、恐らく、このくらいは暗記せよ的なミッションだったかと覚えています。春は明け方が良くて夏は夜…何だか詰まんない話だなと思いながら板書されたものをノートに書き写していたらチャイムが鳴って「次のテストに出るからなー」と先生のお決まりのお言葉で締められた希ガス(笑)。文末の「わろし」が将来2ch「ワロター」の元になるとはこの時、知る由もなく(ウソ)。

春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢(ほたる)飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。

秋は夕暮(ゆうぐれ)。夕日のさして山端(やまぎわ)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(ひい)りはてて、風の音(おと)、蟲の音(ね)など。(いとあはれなり。)

冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭(すみ)持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。

 その時はこの文章が伝えたい事が僕には分からなかったのだと思います。先生が解説してくれたのも先に書いたように春は明け方で夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝がシュキ〜ッ!!…という表層部分は分かったけれど、それがどうしたんだよ!?と言うのが少年ケルベロス本音でした。清少納言だっけ…この人、ただ観た事を見たまんま描いてるだけじゃん!!という感想しか僕は持てなかったのですが、そんな僕もいつしか山を愛し犬を愛しいい歳になった頃にはこの文章意味が自然と分かるようになっていました。時には我を忘れて見入る程、季節毎の景色心奪われている…。だからこうしてブログなどを書いている訳であります(笑)。

もしも、清少納言さんの時代にインターネットが存在したなら、清少納言さんGIFを何個も拵えてHPを立ち上げてたかも知れないし、もう少し時代が進んではてなブログエントリーしてブログを書いてたかも知れません。いや、絶対書いてましたね(笑)。それは枕草子を書いた1000年以上前現代とで、人の本質変わってないからです。僕らは同じ景色同じように美しいと思えるのです。それよりもここで特筆されるべきは1000年前の文章現代を生きる僕らに届いた事であります。その為には「文字」存在なくしては成し得ません。人類「文字」というツールを得る事で「記憶」蓄積する手段を得たのであります。

そして蓄積された「記憶」はその人だけに留まる事なく広く人々の間に波及し、人と人を繋げ、いろんな人々の考えや記憶を取り込んで成長し、最終的には人間の「意識」形成していったのです。僕らは枕草子の文章によって1000年以上前人間の意識触れているわけです。もしかしたらこんな僕の書いたものであっても1000年先まで残っていれば誰かが読んでくれるかも知れない。その期待があるから、僕は未だにナル×ジャンの記述をネット上に放置し続けるのだし、ハチマルでこうして書き続けている訳です。誰かに何かを伝えたという人の想いは1000年前も変わっていないのですね。筆と紙パソコンとネットに変わっただけだな…。

だから、空を見上げれば美しいと感じ、丹沢のクッキリとした山の端の向こうにそびえる富士山神々しさを僕は感じているのです。そう考えながら僕は先生板書した枕草子を思い出しているのです。簡単に言うと僕のレディネスがやっと整ったという事であります。いろんな経験を経て、多少なりとも学べたから…僕の「意識」清少納言さんの書き遺した文意を理解できるまでに発達したのであります。少年少女も時間のある時に空を見上げて欲しいと、僕は思うのです。空じゃなくてもいいかな。何か興味のある事でもいいです。そこで得られた想いを是非、文字遺して欲しいです。それは皆さんの意識を練る行いであるからです。

今は何かと意味不明容認できない事が多かろうと思います。でも、それはいつか溶ける氷塊であります。きっと皆さんが意識しない水面下には想像を絶する大きさの氷の塊が隠れているでしょう。それを文字として出力していれば何かしらの形態で遺るのです。そして、それを見つけた誰かと繋がる筈です。それが長い年月の中でどんどん増えていくでしょう。そしてその連鎖人々の意識成長させて行くのです。僕らは「叡智」というに浮かぶ氷塊なのであります。その意味に気付けば今感じている無味乾燥なお勉強であっても少しは輝くのではないかと、老婆心ながら僕はお伝えしたいと思うのです。

それは僕が後悔しているからであります。

もっと勉強してれば良かった…と世のおっちゃんとおばちゃんが抱く有り勝ちな後悔を僕も同じように抱いています。しかし、学校で学ぶ事のほとんどは勉強の為の勉強に過ぎません。六・三・三の12年…はほぼ練習です。学ぶ事基礎…技術の習得と言っていいです。大切なのはその後です。最近は「寿司屋さんの修行に何年も時間を掛ける必要はない」なんて意見もありますが、本当の修行とは技術覚えた後から始まるのだそうです。寿司屋さんを続ける以上はずっと「修行中」なのだとも…。僕らも同じです。一生学んでいるのであります。だから、おっちゃんになった今、初めて感じる「気付き」というものがある訳です。

僕は少年少女後悔してもらいたくないからこんなものを書き遺すのではありません。逆に少年少女だって僕くらいのお年頃になって同じように後悔しているだろうと予想しています。人生とは後悔の歴史だからです。でも同じように後悔するんなら、その後悔に気付けるように一生懸命生きて欲しいと思っているのです。何が不幸かって何にも気付けない事であります。そういう事がないように是非とも「意識」集積に意を払って欲しいと僕は考えているのです。だから、僕は書き続けているのだろうと思いますし、もしかして清少納言さんも同じような事を考えて枕草子を書かれていたのだとしたら、それこそ魂の本懐であります。

2019年12月31日。今日は晦日であります。空は青く、細かく千切れた雲がレースのカーテンのように所々、空の青を白く抜いて彩っています。これから僕は愛犬と共に赤煉瓦倉庫まで今年最後散歩に行って参ります。散歩納めですね。ま…明日は早速、散歩始めなんですが(笑)。ビルの谷間であろうと、里山であろうと、そこから見える空はそれぞれに美しいです。そして、それは1000年前それ程変わらないかも知れない。僕ら人のメンタリティ意外に変わっていないように…。そんな事を考えながら過ごす静かな年の瀬であります。少年少女もいろいろと忙しいでしょうが体に気を付けて。皆さんの未来幸多からん事を祈ります。

サムライ8 八丸伝 良いお年を。2019.12.31

 良いお年を。

  令和元年12月31日 ハチマル ケルベロス