サムライ8 八丸伝 最終話 パンドラの箱 感想③
「アン…
オレはこれで消える
今は時の流れをズラして…
この次元にある
一角達の侍魂を借りることで
存在出来てるんだ」(八丸)
「……」(アン)
「さみしいよ……
私との…約束は?」(アン)
「…オレは
宇宙で漂う波になるだけ
いつも君を守ってる」(八丸)
「…また会える?」(アン)
「アンが
オレを見ようとしてくれた時
オレはいつでもアンの前——
ただ一点に居るよ」(八丸)
<スッ>(八丸)
「いざ…」(八丸)
(金剛夜叉流——)(八丸)
(う…うそだ!こんな奴が
流星をくり出すあの大技を!!?)(アタ)
(流星剣)(八丸)
散体した後に悟りを開き「上層次元」に行く=不動明王になる…という事は「物質世界」から消える=宇宙を漂う波になる…という事でFA。FA……?!(笑)それって…もしかして、普通に人が死んで居なくなるのと同じ…?「お母さんはね…あのお星様になったんだよ」っていうヤツと同じ…じゃないとですか?「散体は死ではない」と不動明王は仰ったけれど、八丸が消えちゃうんだし、そんなのアンちゃんにしてみれば死んだも同じ…だと思いました。散体とはやはり…侍の「死」でありますまいか。勇を失う。義を失う。不動明王に見放される。諦めたらそこでゲームセットなんだよ…の散体とは侍にとっての「死」なのであります。
アンちゃんが見ようとした時に八丸はそこに居る…というのは相手がどう見るかの問題であります。そしてそれは生きてる人が死んだ人をどう想うか?ぶっちゃけ、忘れないか?と同じであります。斉藤由貴さんの「卒業」に「守れそうにない約束はしない方がいい」というフレーズがありますが、それでも約束してくれる人が一人でも居れば安心して死ねるな…と僕は思いました。八丸はまさにその心境なのでしょう。八丸の生き様を見続けた僕にしてみればアンちゃんの対応は些か厚遇に思えますが、アンちゃんがそれを善しとする以上、余人がどうこう申しますまい。少年少女もこんな風に思える…思って貰える誰かと出会えたらいいですね。
恐らく、精神体(不動明王)となった八丸は「物質世界」には関われないのでしょう。…という事はこの「流星剣」が最後の一振り?!なのに…なのに…何故、それを描いてあげないの!?大気剣で無雲を粉々にした「星砕き」ではしっかり描いたのに(第16話「星砕き」)。これじゃー八丸が成仏できないよ!!これから星になる八丸をしっかりと描いてあげるのが親心なんじゃないの!?まさか「散体して死ぬのに!?意味ないよ」なんでしょうか(笑)。それにしてもこの「流星剣」には余りにも情けがない。余りにも「愛」がないよー!!!これが週ジャンの…岸本先生のやり方かァ!!??(おかずクラブ風)
まーきっと、八丸の生き方にも問題あったんだろうね。僕も彼には好感を持っていませんし(笑)。やっぱ、普段の行いだと思いますよ。人は見てないようで見てるし、見てるようで見てないもんだけど、その人がどんな風に生きてるかをある程度は評価しているものです。これで八丸が誠実(な性格)で、ちゃんと修行してるとかあればもっと違ったと思うけど、八丸は何もして来なかったし、達麻だって何も教えなかったじゃない。どっちもどっちだけど少なくとも八丸は「愛されるべきキャラ」ではなかったように思います。それがこの物語の主人公だったんだから打ち切りも納得ですが、僕らはそこから大いに学ぶべきなのであります。
僕が親だったら自分の子に「八丸みたいになりたくなかったら学校でちゃんと勉強しなさい!!」って言ったと思います(笑)。実際、八丸の問題の多くはファンダメンタルな教育が不足していたところに起因していましたから、8パパ亡き後の保護者である師匠の達麻が何で八丸に教育を与えないのか甚だ疑問でした。だから、八丸の不出来さとは八丸だけの問題ではなくその環境に多くの問題を孕んでおりました。誰かがそれに気付いて八丸に教育を与えていたならもう少し違った未来があったように思います。もしそうして八丸が自分で考える足場や手掛かりを得られていたら八丸はもっと違った行動が出来たと、僕は思うのであります。
八丸は一生懸命に生きていなかった…生きられなかったのだと僕は思います。それは教育がなかったから。自分の置かれた状態に疑問を持ちそれを改善して行く知恵がなかったから。それは周囲の大人(=環境)の罪なので、八丸を責められません。有り体に申し上げれば、八丸はものすごく可哀想な子なのであります。だからこそ、少年少女は八丸から大いに学んで欲しいのです。皆さんが何でガッコで勉強するのか?こんなの社会に出たら必要ないよー(意味ないよー)!!と思うような学問(の入り口なんですが…)に向き合っているのか?全ては八丸のようにならない為…おっと失礼!!…問題を見つけ出しそれを解決に導く思考を養う為なのであります。
それを「論理的思考」と呼ぶのですが、皆さんがボールを追いかけたり鬼ごっこしたりして知らぬ間に体を強くしているように、教室で黒板と教科書に向き合って取り組む勉強によって皆さんの脳(=心)が鍛えらるのであります。皆さんは考える事を学んでいるのです。それはまだ「学問」と呼ぶのも烏滸(おこ)がましい程の「学びの学び」であります。そして、その意味すら分からないくらい皆さんは「無学」なのであります。だから先生方も教えるすべがない。少年少女はそういう難しいお年頃なのであります。でも、今僕が書いてる事。八丸がどんな子だったか…くらいは覚えておいて欲しいです。あの時、変なおっちゃんが何か叫んでたなー…くらいでいいので(笑)。
人生とは後悔の集積体です(笑)。僕くらいのおっちゃんともなれば「もっと勉強したらよかった…」は定期であります。しかし、それに気付けるのは時間がかかるのじゃ(笑)。だから、取り敢えず…でいいので、勉強して下さい。そして、皆さんが「考える力」を身に付けられれば、自分と自分を取り巻く環境の問題点というものが見えてきます。そうしたら、それをどうして解決していけばいいか?を考えられるでしょう。そうなればしめたものです。どんどん自分をプロデュースできるようになる。同時にそうして備わった理解力が皆さんを誠実に変えて行く…。その好循環の中で自分(の人生)にとって何が重要なのかが見えてくると、僕は信じています。僕はそれをズーッと見守っています。
続きまーす!!