サムライ8 八丸伝 第29話 義常の義 感想④
「…お前…敵だよな」
「オレの知ってる事なら
話してやる」(骨河)
「八丸…お前は
オレの知らなかった事も
全て見えてるんだろ?
弁が秘密にしていた事も…!」(骨河)
「…それは…」(八丸)
「それを見せろ八丸!
弁の…奴の言ってた事を
確かめたいんだ!」<ズイ>(骨河)
「ど…どういう事?」(アン)
「さっきから様子が変だぞ」(竜)
「頼む!!
切腹の儀の…あの日の事!
弁のメモリーをオレにも
見せてくれ!」(骨河)
「……分かった」<ブウウウン>(八丸)
<チュー…>
恐らく普通の人間の記憶だとこんなに鮮明な映像では残らないのでしょうが、侍の場合はロッカーボールテクノロジーにより再構築されたサイボーグ(の体)なので情報が劣化しないで残るんでしょう。もし僕の脳内データだったらもっとデフォルメが入ったり、思い込みの所為でかなり大幅な記憶の改ざんがあったのでしょうけど(笑)。参考資料として弁形の記憶の件(くだり)を添付(出典:週刊少年ジャンプ2020/1号)しておきますが、全てが弁形目線で描かれていて、弁形の独り言まで収録された完璧な実況になっています(笑)。鑑定の儀を執り行う大姫様の周りに張り巡らせた水面に映る弁形の嫌らしい顔が絶妙です(笑)。
ちなみに大姫様の周りに蓄えられた水は外敵の接近を知らせるトラップになっているのではかかろうかと思います。水があるだけでそこに足を踏み入れるのに躊躇しますし、深さも分かりませんから足止め効果は高いでしょう。先にムジンさんとサ姫様のシーンでも同じように浮島の周りをお堀のように水が蓄えられていましたので、侍独特の建築様式なのだと思います。それが今回は弁形ビューのレポートにあって弁形の顔を上手く映し込んでいて秀逸な演出でしたね。若干、大姫様の番いの侍様が同席していないのが気になりましたけど、何処ぞでお酒でも飲んでるんですかね(笑)。
しかし、鑑定の儀に血液を採血するとか、そんなん大姫様…要りませんやん!!(笑)ロッカーボールに対する適正って、そも人の性根や善悪、品行方正さなんかと全く関係ないとこで決まるのはこれまで登場した侍様達が見事に証明してくれていますので、採血してるとこ見れば、やっぱロッカーボールテクノロジーとの遺伝子的な親和性が重要なんでしょう。だから、本当に大姫様が居なくても医学的に適性検査が出来ると思います。それなのに何でこんな大層なプロセスを踏むのかと考えたんですが、これはもう既存の権力や権威をを維持する為かな…と思います。きっとこれにお金も関係してるのよねー?
どう考えてもこの世界は侍の、侍による、侍の為の社会ですから!!一般市民は侍社会を持続する為の武士隊の下部組織程度にしか考えてません。散々と世話になったホルダーだって介護施設ではなく廃棄場に捨ててしまう倫理観ゼロの為政を鑑みれば、侍が現体制に固執しその維持に躍起になるのは、それが侍にとって美味しいからに他なりません。だから、こんな辺境の惑星に賞金稼ぎで侍が大挙して集まるんです。それにこれまで侍が一般市民を庇うとか、安全な場所に退避させたような描写は皆無。傷だらけで薄汚れた子供を見てもどこ吹く風で事の余韻に浸る姫と侍…胸糞悪くて反吐が出るぜ!!(笑)
義常はその不都合な真実を熟知しているので何としても我が子を侍にしたいという想いがある訳だ。「侍に非ずんば人に非らず」ですから!!だから、骨河(三打)に侍適正がない(2パーセント)と分かった途端、愛すべき我が子を「失敗」と言えてしまうのです。そうなるように弁形に追い込まれて行ったんですけど、それは弁形が上手くやったと言うよりは義常がバカ過ぎたと言う他ありません。やっぱ侍の頭って空っぽなんですね。人を見る目がない。弁形みたいなあからさまな悪役にいいように踊らされて落ちていくとか、それが恥ずかしくて散体してもいいレベルです(笑)。
ところで、骨河の本名が「三打」(サンダ)みたいですね。一応、八丸のように名前に数字が入っていますので「箱の鍵」の候補だと思うんですが、やっぱこの後の展開でロッカーボールの短刀(切腹刀)で<ブスッ>とやって侍になるんですかね?そうなったら骨河を三打(サンダ)って呼ぶんでしょうか?なんだかね…キャラの名前が変わるのって嫌なんですよー。骨河の表記が登場時は「コツガ」だったのを途中から「骨河」と漢字表記に変えただけでも抵抗あるのに、全く違う名前になっちゃうのがすごく嫌だー…。今時はバーチャルアイドルの声優が変わっただけで炎上するご時世なのにね(笑)。
名前とか声って、そこに「魂」みたいなものが宿るんじゃないですかね。それは科学的とか生物学的な見地だけで人は生きていないからだと思うんです。人は見えないものを感じながら生きています。それを証明はできないけれど誰もが感じることができる感覚でもあります。しばしば…僕は作品に登場するキャラにもそれと同じ感覚を持つ事があります。少なくとも岸本先生の描かれた『NARUTO -ナルト-』においては登場する全てのキャラには確かに「魂」と「生命」(いのち)が宿っていました。岸本先生には今一度、その感覚を想い出して欲しいと、僕は切に願って止まないのであります。
続きまーす!!